Tuesday, May 25, 2010

剣道防具

*剣道具*厳選!「名品」なら良質剣道具 
「名品」剣道防具ショップ
いい中古剣道防具
剣道具はゴルフ用品同様に高価です。
実際
①「博多屋さん」や「鈴木さん」が作られる手刺し防具は正真正銘「日本製」ですし6ヶ月~3年も製作に掛り高価です。
残りの多くの廉価版は
②各パーツは主に中国製作され一部面金、胴台は日本製です。中国で製作された完成品安い。
(中国から仕入れインターネット販売安い)
③韓国で最終組み立てと(価格は安い)
④日本で最終組み立てとなります。(価格は高い)
⑤中国製を自社ブランドで販売される業者特注発注が可能(価格は高い)
⑥韓国製を高級防具として日本に卸している問屋、特注を韓国に発注する業者。
⑦一部ミシン刺しを久慈市、宮崎、など日本の製作所もあります。
 
日本で製作されていた剣道防具が韓国で製作(革靴職人がいた為)され日本に供給されていました。日本から韓国に人件費の高騰から中国で製作されるようになりました。特に中国吉林省には朝鮮族がたくさんおられます。学校が韓国語というのでビックリしました。そのような関係から既に20年は経ていますので、剣道も10年を超えるとなかなかの腕になるように防具作りも同様です。中国製もそうしたベテランが製作に携わって「いい製品」を日本、韓国、台湾に供給しています。

どのメーカー製作でも籠手と面の使い易い防具を選んで下さい。
博多屋さんの「悟」には及ばなくとも使い易い、見栄えより籠手と面を選んでいただきたいです。剣道家だから分かる使いやすさを第一にしています。

7、8段から高段者の先生には「博多屋さん」とか「鈴木さん」の本物をご使用頂きたいと思います。但し大変高額になります。4段以上の剣士の方々には、是非手刺しまたはミシン刺し2mmか2.5mm刺しをお薦めいたします。何でもいいではなく、剣士として「いいもの」を使用することは段位が上がった時にもっと「風格」「気品」が出て来ます。合格する前に必要な心構えと経験上思います。

安物はだんだん飽きて来ますし、いいものは時間と共に良さが出て来ます。

Wednesday, May 12, 2010

韓国の剣道の事情

厳選!良質剣道具 
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日本の皆さんがご存知かどうか、韓国には、数多くの剣道団体があります。日本もよく調べると全剣連だけではなくあることを知るようになりますが、韓国に於いては、大きく二つに分けられます。
 ①日本のように防具を使用する剣道②現代に創られた海東剣道の二つになります。
②海東剣道は竹刀剣道とは違い寧ろ居合道と中国武術の組み合わせのようです。①の日本と同じ剣道についてお話を進めたいと思います。
 韓国の剣道は戦前、旧日本軍の支配下の時に剣道が行われ、その当時の3段の人たちが中心になって維持されたと聞きます。有名な方では大丘市(テグ)で持田誠二先生が指導されたと伝えられる。北辰一刀流5世も終戦をソウルで迎え剣道を教えたとご本人より伺いました。
 戦前の最高位が5段だったと聞いて驚きました。当時韓国の剣士が3段だったということはなかなかだったのではないでしょうか。
 さて、その剣道が終戦後、韓国では稽古が継続されたそうです。脚光を浴びるようになったのはテレビドラマに剣道が使われたのがキッカケだそうです。そして、88年の世界剣道大会がソウルで開催、一気にブームになり現在に至っているわけです。
 その剣道が残念ながら多くの団体に分裂しているのが現状です。何故そうなったかと言えば、背景には反日感情があります。剣道は知っての通り日本からきたわけですが、ブームになったとき独自の独創した東海剣道が産声をあげました。こちらはビジネスとして韓国固有の武術を前面に打ち出し真剣をベースにマーケッテングを駆使しさらに「これこそ韓国の剣道だ」と攻勢をかけました。日本から来た剣道を崩しにかかったわけです。これはテレビ中継で対決されることになった時に、大韓剣道会トップは参加を取りやめ、海東剣道の一人勝ちになり、今度は海東剣道がどんどん全国展開しました。
 参加しない勇気ある剣道家として正しい判断とみることができますが、大衆心理はおかしな方向に向いたことは確かです。
その為だったのでしょう、その対策でしょう、大韓剣道会は剣道を韓国が発祥の地だというわけです。(現存する資料から最古と主張するわけですが、拡大解釈すれば文化の殆どが韓半島から来ていますから)その海東剣道が大きく台頭してくると相当に剣道会の内部引き締めが始まり、相当の実力者が団体から追い出されてしまいました。それは当然新たな団体が始まり、そこからは、ビジネス的に分かれるようになり剣道と名のつく社団法人が50を超えると言われます。
 しかし、実は、皮肉ですが、この分かれた方々こそが親日であり、実力も上だったりして?当然日本の剣道そのままを行い蹲踞もし、腰板のある袴を使い、且、居合道もされる方々です。
 韓国には日本の方々にはよく知らない事情があります。ともあれ剣道人口は相当いますよ。
一つの剣道ですから全社団法人剣道大会をやって欲しいですね。
「交剣知愛」、、、
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Saturday, May 8, 2010

韓国の剣道事情

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韓国に係わりを持って随分になります。
韓国と日本の剣道の大きな違い、それは、韓国では運営が多くが個人道場の多さであろう。
日本では、無くも無いが個人経営道場が本家でありながら、少ない。
 韓国は、個人道場が多いためかどうか定かではないが、30,40代中には50代の年から全くの初心から学ぼうとする実に見上げた精神を持たれているようです。
もちろん、その背景、韓国社会は、日本より遥かに塾通い、学院通いに明け暮れるほど勉強して大学を相当の人が卒業する。その反動なのか出来なかった事をやろうと考えるようである。もちろん健康の為を考えてのことでありますでしょう。
道場経営からすれば、子供対象の方が安定収入が得られる。が、その大人たちが初心の動作から学んで段位を目指す。男性だけかと思いきや、女性もそのようである。もちろん数は男性が多いが。
 子供の出産率の低下により子供対象の道場がテコンドー、韓国ハプキドウ、剣道、海東剣道、と武道道場は会員獲得にマーッケティングを駆使して生存競争である。
 剣道場も同じである。ただ、他の武道場との違いがある。それが、大人が入門するのが剣道場である。
 日本では、区や市のコミュニティーや武道場、体育館で行われている剣道ですが、大人の初心入門は皆無に等しいと思います。
 ほとんどが、経験者が復活する復活組だと思われます。
何が違うか?子供のころからの延長稽古が行われて、結局「地稽古」で終わってしまう。掛り稽古をやるところもあると思いますが。道場経営でないため吾が修練に打ち込んでいるようでもある。
 韓国は4段から指導資格が与えられる。道場は一日に朝昼夕夜4タイムから6タイム行う。これも日本と大きな違いである。日本では夕方2時間ぐらいですかね。
それと、月曜から金曜まで週5回中には土曜まで開く道場もある。
これだけやれば、そこそこ上手くなるし楽しくなってくる。
 韓国社会の特徴でもあるアルコール。酒は勧めたくないが、酒飲みの飲みかたが半端じゃない。一気飲み。性格と民族性なのか。日本の酒飲みはついていけるかどうか?
 韓国は熱い剣道をしています。剣道が韓国のものだといっているとか、騒いでいるようですが、当人達は100%剣道が日本から来たことを承知している。
日本も昔のように個人道場が復活して欲しいと思う。剣道家の皆さん自宅に道場を作って楽しい剣道をやりませんか。応援いたします。
厳選!剣道具「名品」剣道防具ショップ
いい中古剣道防具より 

Friday, May 7, 2010

五月の連休は京都大会へ

*剣道情報5/2~5/5「第106回全日本剣道演武大会」京都市・武徳殿
剣道6,7,8段審査、錬士、教士、範士称号審査会。同様に居合道、杖道も行われました。
ご参加の方々本当にご苦労様でした。

平成22年度 行事日程表

平成22年03月09日現在
厳選 剣道具推薦 
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|剣道|

名称 開催地 開催期日
六 段 審査会 京都市 04月29日
七 段 審査会 京都市 04月30日
八 段 審査会 京都市 05月01日・02日
称 号(範士・教士・錬士)審査会 京都市 05月06日
七 段 審査会 名古屋市 05月15日
六 段 審査会 名古屋市 05月16日
七 段 審査会 新潟市 08月21日
六 段 審査会 新潟市 08月22日
六 段 審査会 北海道北広島市 08月29日
六 段 審査会 福岡県 08月29日
七 段 審査会 名古屋市 11月13日
六 段 審査会 名古屋市 11月14日
六 段 審査会 東京都 11月24日
七 段 審査会 東京都 11月25日
八 段 審査会 東京都 11月26日・27日
称 号(教士・錬士)審査会 東京都 11月24日

|居合道|
名称 開催地 開催期日
八 段 審査会 京都市 05月03日
称 号(範士・教士・錬士)審査会 京都市 05月03日
六 ・ 七 段 審査会 群馬県 06月25日
六 ・ 七 段 審査会 兵庫県 07月09日
六 ・ 七 段 審査会 東京都 11月20日
称 号(教士・錬士)審査会 東京都 11月24日

 |杖道|
名称 開催地 開催期日
八 段 審査会 京都市 05月03日
称 号(範士・教士・錬士)審査会 京都市 05月03日
六 ・ 七 段 審査会 高知県 08月20日
称 号(教士・錬士)審査会 東京都 11月24日
六 ・ 七 段 審査会 東京都 平成23年01月14日

Tuesday, January 19, 2010

お薦め 現代の「名工」博多屋 「武昭号」手刺剣道防具 

手刺剣道具,

    本物探して、


籠手を見れば技術が分かる。日本製の中でも、これこそ名品です。

『最良の手の内を求めて』 『気になる剣道具』 『甲手の良し悪しは手のうちで変わる』 等々幾多の特集で剣道雑誌にご紹介いただき、『博多屋の甲手、武昭』への信頼は厳選した素材を全国に探し求め、お客様各々の声を真摯に受け熟練の技で、抜群の使いよさを形にすることから生まれます。普及品から最高級品まで製作過程は同じ、まごころを込め、お客様の親身になって制作させていただきます。博多屋武道具店の『武昭』 『武心』 『肥前』 は現代の名工が厳選制作した信頼の証です。

武昭の面

 博多屋敏昭が制作させていただく剣道具 『武昭』 。その中でも武昭の面は顔の大きさにピッタリと合わせ、お客様にフィットする面を博多屋敏昭が心を込め、お客様の剣道具を身につけた立ち姿を想像しながら、持てる技術を全て注ぎ込み、制作いたします。 
 最上級の鹿皮、紺反、飾り糸に至るまで吟味し、内輪も一刺し一刺し、縫い上げたオーダーメイドの面です。
面布団の中には古代毛氈を用いておりますので軽く、柔らかく、そしてコシのある布団に仕上げております。慣らしを必要とせず、すぐに稽古や試合にお使いいただけます。
2.5分武昭甲手 『 悟 』
 甲手布団を新たに考案した形状にすることにより手首を返しやすく、より使いやすく、より素早い動きにも対応できるように工夫した甲手です。 (特許出願中 特許出願 2005-245138)
 手をいれた時に違和感なく握れ、まるで『甲手を着けてるのを感じさせない』とご好評の武昭の甲手。 上質の鹿皮や鹿毛、紺反にいたるまで職人自らが吟味した傑作です。 使い心地、耐久性共に必ずご満足いただける甲手です。甲手頭も1段飾りとシンプルで機能的です。 2,5分刺ですので刺しの細かいものより衝撃吸収力に優れています。
 全国の剣道家の皆様にご愛用いただいております。

オープン価格

 ①が武昭甲手『 悟 』です。②が従来の武昭甲手です。比較していただくとより、『悟』の方がより起き上がっているのが分かられると思います。
① ②

3、0分少年用手刺肥前甲手
 博多屋武道具店で制作される武昭の甲手。その甲手を『剣道を始めた子供にもぜひ使わせたい』というお客様のお声から生まれた本格派の甲手です。造りは武昭の甲手と同じで手の内は上質の鹿皮を使用しており、甲手頭の中にも、もちろん鹿毛を使用しております。非常に軽く、3分手刺なので衝撃吸収力に優れ、ミシン刺に比べて叩かれても痛くありません。銘こそ『肥前』ですが、制作する工程も全て武昭甲手と同じです。お使いになられれば、竹刀の握りがもっと良くなり、楽に手の返しができます。もっと剣道が楽しくなるはずです。ぜひ、お子様に正しい手の内を!!(対象学年 小学低学年~高学年) 
 全国の少年剣士の皆様にご愛用いただいております。

オープン価格

職人紹介

 鉄心流 武具師 博多屋 敏昭

「お客様の体格や剣風は様々ですがその人に本当に合ったものをご提供していきたいと考えています。お使いになられる方のご意見や要望に沿ったものを作り、お試しいただく。さらに独自の工夫を加え、より使い易いものへと進化していきます。身に着けた瞬間に「体の一部」の様に感じ、使い込むほどに剣道具の方から体に馴染んでいくような剣道具を作り多くの方々に納得して使って頂けることを目指しています。」


経歴
昭和18年 1月1日 長崎生まれ。
昭和33年 武道具製造卸業の播磨丈吉商店に入社。
        西岡留造氏(鉄心流)の弟子となり剣道具職人の道にはいる。
        9年間の修行で、面、胴、甲手、垂すべての制作技能を修得する。
昭和42年 独立。
平成元年  九州、山口武道具商工会より、卓越した技能として会長感謝状授与。
平成4年  長崎県知事より優れた技能者として知事表彰受賞。
平成10年 卓越した技能者(現代の名工)として武道具製造業界初の労働大臣表彰を受賞。
          (現在に至るまで国内の剣道防具製造者では唯一の受賞者)


平成19年~平成20年 全日本武道具共同商工会副会長
平成19年~平成20年 九州・山口武道具商工会会長
平成20年~       全日本武道具共同商工会副会長代理
平成20年~       九州・山口武道具商工会副会長

全日本剣道具職人会会員
雑誌掲載歴
1996年 剣道日本  5月号 最良の手の内を求めて 甲手の良し悪しで手の内は変わる
1999年 剣道時代 10月号 剣燦燦 剣道具業界初の現代の名工 『武昭号』の製作者
2004年 剣道日本  4月号 防具選びの新基準 細部にまでこだわり自分に合った防具を追求
2004年 剣道日本  7月号 気になる剣道具 第4回 上質の素材と伝統の技術が使いやすく丈夫な甲手を作る

お薦めする理由は籠手にあります。
  籠手は、そのまま「構え」に「手の内」なります。
 その昔から現代に至るまで、数知れない剣士たちが追求、練磨して求めて来たのが、即ち正 眼である。晴眼、正眼、星眼とも言います。また、上段、二刀です。
 それは、素手のような感覚でできる籠手こそ「名品」に相応しいと思います。

 籠手を見事に製作される「博多屋」さんの籠手を知って私の星眼はより高めることが出来  ました。先代より教えを受けた構えを再現できることに感謝しております。

「名品」剣道防具ショップ
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出典:体育とスポーツ出版社『剣道時代』 第344号、平成13年3月。より

リンク
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防具(剣道具)の歴史(上)    中村 民雄  

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 現在、剣道の専門用語としては「防具」という言い方はなく、「剣道具」というのが正式名称である。
 しかし、「防具」という言い方も慣用的に用いられているので、以下、防具(剣道具)として論をすすめる。
 そこで、防具(剣道具)の歴史を述べる前に、まず防具・剣道具という用語の変遷について明らかにしておこう。

語の由来
 「防具」という用語は、江戸時代には使われた形跡がない。それに相当する語としては、「道具」もしくは「武具・具足・竹具足・竹鎧」といった語が、それを表わすことばとして用いられていた。
 はじめて「防具」という語が用いられたのは明治になってからで、軍隊組織をフランス式に改めようとしていた陸軍において最初に用いられた。
 明治十七年(一八八四)、フランス軍事顧問としてド・ビラレ、キュ―ルらを招聘し、フランス式の剣術・銃剣術をわが国の陸軍軍人に指導した。軍事顧問団が帰国したのち、その集大成として明治二十二年(一八八九)に、わが国初の『剣術教範』(総則、第一部正剣術、第二部軍刀術、第三部銃剣術)が制定された。その教範に、銃剣術の「器具ヲ大別シテ銃及ビ防具ノ二種」とし、「防具ハ仮面・胴(垂れつき)・肩当及ヒ甲手ノ四種ヨリ成ル」と、はじめて「防具」という語が出てくる。これが「防具」という語の初見ではないかと思われる。     
 つまり、フランス式剣術・銃剣術を日本人に教えるために、防身用具の略語として「防具」という造語がつくられたのである。
 この『剣術教範』は、明治二十七年(一八九四)、明治四十年(一九〇七)、大正四年(一九一五)と三度改正され、その都度日本式の道具や技術へと改良されていった。三度目に改正された大正四年以降は、軍隊剣術用の道具のうち、両手軍刀術のものは基本的には垂れつき胴であるが、一般の剣道用の道具と同じものを使用してもよいようになった。
これにともない、軍隊剣術用語であった「防具」ということばは、逆に一般の剣道の用語としても用いられるようになり、昭和になると、防具といえば剣道の「面・小手・胴・垂」をさすことばとなっていったのである。
 これが戦後も受け継がれ、撓競技から剣道の用語へと使われていった。        昭和二十七年(一九五二)、全日本剣道連盟が結成された。翌昭和二十八年に制定された「全日本剣道連盟試合規程」には、用具の条項に、「防具は面、小手、胴、垂を用いる。」という条文がある。この規程により、「防具」という語は、剣道の専門用語として再び用いられるようになった。
 しかし、それでもまだ剣道の専門用語の域を出ず、一般用語としての広がりはなかった。
 例えば、諸橋轍次著『大漢和辞典』(大修館書店、昭和三十四年)には、「防具」という語は載っていない。このことからみても、「防具」という語は明らかに近代の造語であるといえよう。また、新村出の『広辞苑』(岩波書店)の初版(昭和三十年)にも、「防具」という語は載っていない。この『広辞苑』に「防具」という語が載るのは、第二版( 昭和四十四年)からで、「剣道で、面・胴・腕などをおおって、相手の攻撃を防ぐ道具」と書かれている。第三版(昭和五十八年)からは、「剣道やフェンシングなどで、面・胴・腕などをおおって、相手の攻撃を防ぐ道具」と、フェンシングが加わっている。    いずれにしても、昭和四十年前後に「防具」といえば、剣道の道具という認識が一般的にも浸透していったことがわかろう。
 その後、昭和五十四年(一九七九)に「剣道試合規則・剣道審判規則」が大幅に改正され、試合規則の第八条に「剣道具は、面・小手・胴・垂を用い、服装は、稽古着・袴とする。」と定められて以降、「防具」という語は用いられなくなり、「剣道具」が正式名称として用いられるようになった。ちなみに、「稽古着」という語も、平成七年(一九九五)の「剣道試合・審判規則」から、「剣道着」という言い方にかわったことを付け加えておく。
 そんな、剣術の道具→防具→剣道具とかわってきた用語の変遷を念頭に置きながら、防具の変遷を眺めてみよう。

防具の発生
 剣術の防具の発生については、これまで一般的に宝暦・明和年間(一七五一~七二)であるといわれてきたが、この時期に急に発生してきたものではない。流派武芸の完成した寛文・延宝年間(一六六一~八一)ころから、すでに安全性を確保するための防具が部分的ながら工夫されはじめていたのである。
 ここでは、そうした事例を記した史料を紹介しながら、防具の発生について述べていくことにする。
 ただし、この時期の史料は非常に乏しく、詳細に論ずることは難しい。そんな中で、一二事例をあげれば、山鹿素行の随筆「綴話(自万治三年・至寛文元年)」(広瀬豊編『山鹿素行全集・思想篇第十一巻』岩波書店、一九四〇年)に、「竹刀剣術の作法も、・・・・古は具足を着、鉄の面をあてて、思う如くに勝負をして」と書かれている例がある。また、寛文三年(一六六三)二月、紙屋伝心頼春(直心流流祖、神谷伝心斎直光ともいい、紙屋は晩年の称である)が、大沢友右衛門に出した『紙屋伝心六十七歳ニテ一流見出シ直心流ト極致御伝授ニ付改兵法根元』(稲川故吉写本)に、「他流ニテハ稽古之節、皮具足、面思頁サマサマ道具ヲタヨリ稽古ス。直心ノ上テハ、イササカ身ヲフセク道具用不申」と記されているように、直心流以外の流派、具体的には何流かわからないが、すでに江戸時代のかなり早い時期に防具を使用しはじめていたことを裏付ける例もある。        さらに、天和二年(一六八二)、菱川師宣によって描かれた『千代の友鶴』に、タンポ槍を持った若者と、面具・垂付胴をつけ薙刀を持った若者とが仕合をしている絵がある( 写真1参照)。              
 この絵が描かれた年代が十七世紀後半、江戸時代中期に相当する。
 また、この絵に画かれた防具は、面具に布団や突垂はなく、顔面を覆うだけのもので、竹製のようにもみえる。胴は垂付胴で、これは明らかに竹製、のちの竹具足と同じもののようである。菱川師宣はその後も同じような絵を『浮世続』(天和四年)に描いているところをみると、江戸時代も相当早い時期にはすでに防具を使う流派があったことをうかがわせるものである。

槍術用の防具
 それでは、剣術と槍術とではどちらが先に防具を着用しはじめたのであろうか。このことについて下川潮は、『剣道の発達』(大日本武徳会本部、一九二五年)において、斬撃を主とする剣術と、刺突を主とする槍術との技そのものの性質から考えても、また稽古上どちらが危険であるかということから考えても、面や胴のような防具は、槍術稽古において産み出されたものを剣術が応用したものであろうと、槍術用防具の剣術流用説を述べている。

 しかし、江戸時代初期のころの武芸は、すでに剣術や槍術に分化し、単独の流派を名乗ってはいるが、教習の過程では「外物」として、槍術ならば剣術を想定した稽古を必ず行なっており、必ずしも槍術が先で剣術がそれを流用したと断定することはできないであろう。
 したがって、ここでは剣術が先か、槍術が先かという議論には深入りせず、槍術の防具の変遷と特徴のみを述べ、剣術用の防具と比べることに止めておく。
 なお、前述した菱川師宣の絵(写真1)には、竹製ではないかと思われる面で、面布団と突垂のない顔面のみを覆う面具が描かれている。また、小手はつけていない。同じく菱川師宣の描いた『浮世続』でも、小手は画かれていない。




 ところが、明和五年(一七六八)版、柏淵有儀の『芸術武功論』に画かれた正木流槍術防具は、「鉄護面」に頭部・咽喉部を防護する布団をつけた面と、垂付の竹鎧(竹胴)、腋下を護る防具、腰を護る綿護腰とが画かれている(写真2参照)。




 この百年の間に面は鉄製の強固なものに改良され、咽喉部を防護する丈夫でかなり幅の広い突垂と面布団が付着されたことがわかる。
 そのことは、幕末期の「風伝流槍一切道具図」をみてもよくわかる。咽喉部については「此よたれかけも竹具足の仕立のごとくなり。又是をなめし皮にてもよし。」と書かれているように、面金と同じ幅の竹やなめし皮で作った突垂が付いている(写真3参照)。「 風伝流槍一切道具図」は、幕末期の写本(年不詳)であるため、面や竹具足の他に、藁でつくった小手と脛当の図も加わっている。小手は対剣術用であろうし、脛当は対薙刀用であろう。つまり、槍対槍の仕合ばかりでなく、剣術や薙刀など異種仕合をも想定して防具が工夫されていたことを物語っている。これは他流試合が盛んになる幕末期の現象ということができよう。




 他方、江戸時代後期になっても突垂については必ずしもすべての流派で使用していたわけではない。文化九年(一八一二)に画かれた「日新館武芸稽古図・槍術」(写真4参照)には、突垂のついていない面具をつけ、皮胴を着けて稽古している絵が画かれている。この絵に画かれた流派が、会津藩に伝わった大内流、宝蔵院流、一旨流の三流の内のどの流派かはわからないが、槍術の稽古において防具を着用し、タンポ槍を持って行っていたことがわかる。



 以上、これらの絵をよくみると、なぜか小手の画かれていないものが多いことがわかろう。槍術の稽古は素手のままで、槍術用の防具には小手はなかったのかもしれない。槍術にも小手が登場してくるのは幕末になってからであり、後述するように剣術では江戸時代初期のころから小手を使っていたことからすれば、小手は剣術用のものを槍術が流用したとも考えられる。
 いずれにしても、両者が互いの防具の欠点を補うようにして、次第に現代のものに近い形にまで改良していったのではないかと思われる。

剣術用の防具
 剣術用の防具について、前掲の下川潮は『剣道の発達』において、「直心影流にては、山田平左衛門光徳(一風斎と号す)形稽古の形式のみに拘泥して気勢の欠如せるを慨き、全気勢を傾注して打込み稽古をなすも危険の虞なき防具の工夫を創め、其子長沼四郎左衛門国郷の時代正徳年間に至り完成」したと、書かれている。
 以下、下川の説を実証しながら剣術用の防具の変遷について述べることとする。
 直心影流は、初代・杉本備前守政元(神陰流)から数えて五代目・神谷伝心斎真光(直心流)、六代目・高橋弾正左衛門重治(直心正統流)と続き、七代目を継いだ山田平左衛門光徳が名のった流派名である。
 この山田平左衛門からはじまる直心影流の『兵法伝記註解』(稲川故吉写本)によれば、のちに直心影流を名のることになる山田平左衛門は、十八歳のとき木刀による仕合でけがをし、その後剣術を一時中断していたが、三十二歳のとき高橋弾正左衛門の流派が「面・手袋アリ而怪我ナキヤウニ、身ヲシトミ稽古スル」のを見て同流に入門し、四十六歳のときに免許を得たと記している。山田平左衛門が免許を得た歳は、貞享元年(一六八四)にあたり、それよりも十数年も昔から高橋弾正左衛門の流派では防具を使っていたことがわかる。            
 なお、高橋弾正左衛門が用いていたのは、ここでの記述が正しいとすれば、「面・手袋」のみであったことになる。胴は着けていなかったことになる。この点、同じ新陰流系統で、仙台に伝わった狭川新陰流が用いた防具が面と小手のみであったことから考えると、新陰流系統では早くから袋しないを使って、「面・手袋」を用いて稽古していたことがわかる。
鈴木省三『仙台風俗志』(自刊、昭和十二年)に描かれている新陰流の防具は、面と小手のみで袋しないを持っている(写真5参照)。




 したがって、「胴を打るゝ時は、只稽古着の衣物の上に当るを以て随分痛みを覚ゆるなり。」と述べられている。
 高橋弾正左衛門の師にあたる神谷伝心斎は、「他流ト仕相セハ木刀也。シナイニテハカタク無用之事。」といわれているので、神谷伝心斎は形稽古のみで、防具を用いるようになったのは、高橋弾正左衛門の時代からであったこともわかる。
 また、山田平左衛門が書き残したといわれる『兵法雑記』には、「兵法稽古之次第」の「吟味乱レ之事」を説明した中に、「右真勝負ニ至テハ面手袋小具足ヲ堅メ、互ニ遠慮ナク勇気一盃ヲ尽シ入乱可鍛錬者也。」と書かれた箇所がある。これは竹刀打込み稽古のことを言い表わしたものであるので、平左衛門の晩年には、防具を着用していたことがわかる。平左衛門が亡くなったのは享保元年(一七一六)、この年は正徳六年と同じ年にあたり、下川のいう正徳年間に防具が完成したという説とも一致する。
 さらに、山田平左衛門の第三子で、直心影流の道統を継いだ長沼四郎左衛門国郷(一六八八~一七六七)の墓碑には、国郷によって「木刀・皮竹刀」が改良され、「面・手袋」も、「鉄仮面」や「綿甲・覆膊」に改良されたと記されている。国郷が父・平左衛門から流儀を譲られたのは宝永五年(一七〇八)、それから平左衛門が亡くなる享保元年までの十年程の間に、父とともに防具の改良に励んだものであろう。
 これらの事例からみれば、新陰流系統で用いていた「面・手袋」を改良し、それに胴を加えて防具として完成させたのは、山田平左衛門の晩年、長沼国郷が道統を継いだ正徳年間(一七一一~一六)のことであったと結論づけても間違いはなかろう。

直心影流の防具
 次に、直心影流の防具について、どのような形態のものであったのかをみてみよう。現存する直心影流の防具は、残念ながら見たことがない。
 しかし、富永堅吾が昭和六年(一九三一)に模写した『諸流派武道具図絵』に、当時保存されていた直心影流の防具の絵図があるので、それを参考までに掲載する(写真6・7・8参照)。 
 この絵図をみると、面は竹製で、突垂がついていないことがわかる。胴は平竹を紐で組んだもの。小手は前腕部を覆うもの。竹刀は袋しないであることがわかる。写真5の新陰流の防具と比べてみると、面は面布団がついていること。胴は竹胴のものを用いていることが違いとしてあげられる。いずれにしても、写真6・7・8の絵図は長沼国郷の時代に完成されたといわれる防具と大差ないものといえるのではなかろうか。






「下」につづく。

 出典:体育とスポーツ出版社『剣道時代』 第344号、平成13年3月。



防具(剣道具)の歴史(下)    中村 民雄  

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防具の改良
 直心影流が防具を完成させてから五十年ほど経った宝暦年間(一七五一~六四)には、一刀流の中西忠蔵子武も「鉄面ヲ掛ケ、竹具足ヲ用ヰ」た竹刀打込み稽古法を採用した。このことは、中西是助の『一刀流兵法韜袍起源』(文久元年版)に、「抑モ中西家ニテ、シナへ打合初リシ濫觴ハ、宝暦年中ノ比」であったと記されていることや、白井亨の『兵法未知志留辺』(天保四年版)に、「子定死シ、其子中西子武ニ至リ、勢法ヲ以テ道ヲ伝ル事ヲ迂ナリトシ、今天下流布ノ韜袍比較ヲ捷径ナリトスルニ至リ」と記されれていることからもわかろう。
 中西忠蔵子武が竹刀打込み稽古法を採用した理由は、安永四年(一七七五)十二月、津軽藩一刀流の山鹿高美が、一刀流剣術の得失十一ヶ条を中西忠蔵に問うた質問書に対する、中西から山鹿宛の返書に明らかにされている(笹森順造著『一刀流極意』一刀流極意刊行会、昭和四十年)。中西は、山鹿の熱意には感心したものの、「しないの個条の処計愚案申述候」と、この一ケ条のみはとうてい看過することができないとして、この箇条のみ翌年正月三日付で返書を送っている。その一ヶ条とは、山鹿が師の小野忠喜に「木刀の勝負、竹刀の勝負」について問うたときの返答を、そのまま中西にも問うたもので、小野派一刀流宗家の返答が、「竹刀の業は存分軽く、譬へは子供の遊の如くにし、勝負の処を深く思う事を嫌うて事可ならん」とする意見に対し、中西は、竹刀打込み稽古法の採用により新生面をうち出そうとしていた中西派の意図の曲解であると反論した。この両者の対立点はそのまま、その後の小野派と中西派の一刀流内での勢力消長の分岐点となるとともに、他流派においても、竹刀打込み稽古法を採用するか否かは勢力消長の大きな分岐点となった。このころを境に他の流派でも、それまでの組太刀や木刀による形稽古法から竹刀による打込み稽古法へと大きく転換していった。
 十八世紀後半から十九世紀にかけての防具の形態ついて、鏃噛軒古温『似匠誤号之弁』(寛政六年写本)には、「たまたま具足といえばとて、布或ハ皮にわたを入、縫ひかためるに、竹なんどつづり付たる具足を着るより外はなし。」と記されている。また、山崎利秀『剣術義論』(寛政三年版)には、「業を試みるには、面・小手を当て、たがひに怪我せぬやうにして、しなへにて打合ても、勝負の理は分明なり。」と記されており、 園の『剣術秘伝独修行』(寛政十二年版)にも、「先ヅ両人ともに、面・小手・竹具足にて身をかため、怪我のなきやうに用心して」と記されているように、竹具足がかなり一般的に普及していたようである。幕末期の防具として多くの剣道書にとりあげられている『北斎漫画』(文化十四年)の絵は、ここでいう竹具足である(写真9参照)。


 ただし、『北斎漫画』に画かれた防具絵をよくみると、何故か突き垂がついていないことに気付くであろう。この点はすでに前回、直心影流の防具絵(写真6・7・8)においても指摘したとおりである。突き垂がないということは、このころの剣術の技には突き技がなく、面と小手を主に打つ剣術であったのかもしれない。
 突き技については、天保年間(一八三〇~一八四四)に柳河藩の大石進が五尺三寸の長竹刀で、江戸の名だたる師範を突きと胴切りでことごとく打ち負かしたという逸話が残っている。これなども、大石が大石神影流の剣術のみならず、大島流槍術の師範でもあったことから、槍術の刺突技術を応用して、剣術用防具の弱点をついて勝を制したものであったといえよう(藤吉斉『大石神影流を語る』自刊、一九六三年)。この大石に影響されてか、この後長竹刀が流行した。また、天保期の剣術用防具は、高野佐三郎の『剣道』(良書普及会剣道発行所、一九一五年)の口絵に掲載されているような、突き技にも耐えられるような幅の広い突き垂をつけた竹具足がつくられた(写真10参照)。




 江戸での流行は次第に在郷へも広がり、このころになると突き垂のかなり幅広のものが在郷でも発見されている。天保七年(一八三六)と明記され南会津郡伊南村で発見された防具は、竹面、竹具足という素朴な手作りのものであるが、突き垂はかなり幅広のものが付いている(写真11参照)。 



 伊南村では他に鉄面の防具ももう一体発見されているので、在郷においてはちょうどこのころ(天保期)が竹面から鉄面への移行期に相当するのかもしれない。
 以上のように、鉄面に頭部・咽喉部を防護する布団や突き垂をつけた面と、胸板のついた胴は槍術用のものを剣術が流用し、剣術にふさわしいように改良していったものと思われる。しかし、小手については、剣術で使用していたものを槍術が流用して槍術用に改良し、流派によっては片方の肩を完全に被う武具の篭手をそのまま応用したような小手も考案されている。このように両者が互いの欠点を補い合いながら防具を改良させていったのではなかろうか。
 いずれにしても、ここに至ってようやく今日の剣道と同じような突垂れのついた面、小手、胴、垂が出揃ったといえよう。したがって、これ以降はそれら防具の部分改良であったということができる。
 なお、江戸の町では、これらの竹具足や竹刀を取り扱う店が鍛冶橋から愛宕下辺りと下谷御成街道沿いに多くあった。牟田高惇「諸国廻歴日録」(『随筆百花苑・第十三巻』中央公論社、一九七九年)にも、「日蔭町高崎や江皮どふ壱ツ頼。金壱両ニ而頼置也。」という記述がある。皮胴の代金は一両。竹刀については、「晩方日蔭町罷出、しなへ竹求也。代弐百七拾文也。」という記述があり、別の箇所では、代金「弐百文」とあるので、竹刀は二百文から二百七十文くらいであったと思われる。
 このように、牟田が通った日蔭町高崎やは、鍛冶橋から東海道を西へ行き、芝口二~三丁目、源助町・露月町の一本西側の通りにあたり、近くの愛宕下には直心影流の長沼道場もある剣術の盛んな地域であったことがわかろう。また後に、幕府が築地に講武所を創建したのも、海防という条件とともに、この地が剣術の盛んな地であることと防具の供給地でもあったことを見落としてはならない。                 
 なお、葛飾北斎の『画本東都遊』(享和二年版)には、そんな鎧・具足屋の店先の様子を描いた絵がある。その絵の中に袋しないと竹具足が壁にぶら下っているところをみると、剣術の防具はこれら鎧・具足屋が取り扱っていたものと思われる(写真12参照)。



幕末の防具
 嘉永六年(一八五三)、ペリ―が浦賀へ来航し、わが国に開国を迫るという事件が起ると、江戸では武具・甲冑がとぶように売れ、江戸の町は騒然とした様相を呈した。また、これに驚いた幕府は、安政二年(一八五五)築地に講武所をつくり武術の奨励をした。
 この幕府直属の講武所は、それまで流派や道場ごとにバラバラであった防具や竹刀を統一する役割を果たした(『講武所』東京市役所、一九三〇年)。中でも講武所の規則に示された「鎗剣共形は無之、一同試合之稽古に仕」という条項と、「自分持参之道具たりとも、撓へ柄共総長さ曲尺にて三尺八寸より長きは不相成。」という条項は、従来の形稽古を廃し、竹刀の長さを統一し、流派を越えた試合中心の稽古形態に切り替えていった。このことにより他流試合は一段と活発になり、より強固で持運びのしやすい防具が工夫されていった。
 幕末期に多く用いられる一枚皮の胴は、持運びにも便利な防具として開発されたものである。竹具足の場合、胸から腹へかけての丸みはほとんどなく寸胴であったが、皮胴の場合は少し丸みがつけられている。垂も、竹具足の場合は垂つき胴で三枚垂が主であったが、皮胴になると垂は胴から離れ、三枚垂のものから五枚垂のものへと改良された。面は鉄面で、今日のものと同じ十四本の面金(横金)からなり、「金面突き」にも耐えられるよう縦金と横金はかなり前面へ盛り上がっている。また、面布団は突き垂とほぼ同じ長さで肩までしかなく、今日のものと比べるとかなり短い。突き垂はかなり幅広につくられているが、裏に用心垂はついていない(写真13参照)。


 さらに、このころになると竹具足と皮胴が一体となった胴(竹胴の外側になめし革を貼ったもの)もつくられるようになり、腹にも丸みが少しつけられ、今日の胴とあまり遜色ないものがつくられるようになった(写真14参照)。



明治以降の防具
 明治になり、廃藩とともに一時廃れかけた剣術の命脈を保ったのは撃剣興行と民間の愛好家による私家道場である。これに対し明治政府は、陸軍の軍政をフランス式に統一したため、明治十七年(一八八四)フランスよりド・ヴィラレ―、キュ―ルを招聘し、仏国式軍隊剣術の伝習を行った。この時伝えられた剣術は、のち『剣術教範』(明治二十二年)として制定された。ここで初めて「防具」という用語が使われるとともに、その防具も仏国式のものが使われた。
 しかし、陸軍の軍政はまもなくドイツ式に転換し、明治二十七年に制定された『剣術教範』においては、防具は日本式、軍刀術は片手式という折衷案が採用された。このような軍政の転換にもかかわらず、軍隊剣術用の防具の改良は続けられ、「軍刀術専用胴ニ持出胸(小胸トモ云フ)ヲ付ケタルモノアリ。持出胸ハ明治二五・六年頃ヨリ製作セラレシモ ノニシテ、其形状種々アレトモ要ハ腋下ノ防護ニアリ。」と、胴胸に小胸もち出しが付けられるようになった。また、胴台の丸みもさらに丸みをおびてくるようになった(陸軍戸山学校編『剣術用具ノ研究』軍需商会、一九一九年刊)。              
 大正期には、防具の大量生産が進み、職人による手刺しのみならず「ミシン」刺しの防具もつくられるようになった(陸軍戸山学校編『前掲書』)。             さらに昭和にはいると、小手布団が寸胴の筒型から前腕部のところに一部切れ込みが入るようになり、面布団も次第に長くなり両肩を完全に覆うものへと改良されいった。ここに防具の形態は完成したといってもよかろう。
 ちなみに、昭和七年(一九三二)「武道具定価表」(昌栄堂剣道具店)によれば、この店の最高価格の防具は、一式八十五円。内訳は、面(一分五厘、下菱帽子紺皮造リ、面金洋銀製、蜀紅入別仕立)二十六円。小手(一分五厘刺、総紺皮ケラ頚仕立)十八円。胴( 黒艶消塗、胸雲形蜀紅入、小胸付別仕立)二十四円。垂(一分五厘刺、ナマコ仕立雲形入特製)十七円という値段であった。いちばん安い竹胴式防具でも一式十円五十銭。皮胴の
もので二・三十円が手ごろな値段といったところである。それにしても今日の貨幣価値と比べて一万倍としても八十五万円。このころすでに一種の美術品のような価値を持っていたのであろう、単なる道具としてはかなり高価なものであったことがわかる。
 なお、比較のため柔道衣をみると最高価格で二円六十銭。剣道衣で「紺地肩ベタ刺」と
いわれるもので二円九十銭。「紺地上等総立刺」は六円もした。竹刀は子供用で四十銭、
上等のもので八・九十銭した。防具の値段という点が剣道の普及には常に問題となっていることがわかろう。

戦後の防具
 戦後、剣道ができなかった時期につくられた「撓競技」の防具は、「(一)防具は面、胴当、手袋を用いる。(二)面(マスク)は前面、側面も金網で作製したものを使用する。(三)胴当(プロテクタ―)は布製の部厚なチョッキに堅板(鉄板或は竹製のもの)を縫着したものを用いる。(四)手袋(グロ―ブ)は手首の長い堅板の縫着したものを用いる。」という、フェンシングを模したものであった(全日本撓競技連盟『撓競技―規程の解説と基本―』妙義三出版社、一九五一年)。
 昭和二十七年(一九五二)十月、全日本剣道連盟が結成され、翌年三月より施行された
「試合規程」には、「防具は面、小手、胴、垂を用いる。」と、撓競技とは違う、戦前からの剣道の防具を使うことになった。
 したがって、僅かな期間ではあるが、撓競技用の防具と剣道の防具が併存する時期があった。しかし、それも長くは続かず、昭和二十九年(一九五四)三月、全日本撓競技連盟と全日本剣道連盟が合併し、新たに全日本剣道連盟が結成されると、次第に撓競技は廃れていき自然消滅のようになくなってしまった。
 その後、剣道の防具はジュラルミンの胴がつくられたり、五本指の小手が試作されたりしたが、防具の形態を大きくかえるまでには至っていない。また、竹刀については、カ―ボンしないが昭和六十年に売り出された。このカ―ボンしないについては、昭和六十二年(一九八七)三月十八日、試合において使用してもよいことが通知され、現在では多くの人が用いている。
 また、防具の改良で忘れてならないのが平成九年(一九九七)三月に発売された「顔がみえる面」である。この面は瞬く間に普及し、平成十二年(二〇〇〇)三月十五日には、「剣道試合・審判規則、細則」の改正が行われ、細則第3条は「規則第4条(剣道具)は、第3図のとおりとする。但し、ポリカ―ボネ―ト樹脂積層板装着面は、全日本剣道連盟が認めたものとする。」(『月刊剣窓』通巻二二四号、平成十二年四月)となり、四月一日から施行されることとなった(『月刊剣窓』の絵図参照)。



防具(剣道具)の将来
 防具(剣道具)の歴史を結ぶにあたって、将来・近未来のことを少し考えてみよう。
 このことは、まず「防具」という用語を廃止したところから、道具→防具→剣道具という新たな第三の歴史が始まったことを意味している。この歩みはカ―ボンしないの出現とともに、顔の見える面を開発し、従来の防具のイメ―ジを大きくかえた。次にくるのは面および胴の紐であろう。面や胴の紐は日本人ですら蝶結び等できなくなった昨今、普及を考えたならば大きな障害となってくるであろう。面紐はマジックテ―プにかわり、胴紐もマジックテ―プと同じような着脱しやすいものにかわってゆくであろう。
 それとともに、文化や伝統として行われている剣道の所作事も次第に簡素化されて行くのではなかろうか。例えば、礼法か否かで議論のある試合開始・終了時の「蹲踞」などは、試合運営上の合理的根拠という点からすれば、互いに立礼を交わしているのに何故蹲踞が必要かという疑問もあるように、早晩廃止に向うのではなかろうか。もちろん蹲踞を行う意味はあるにせよ、それが試合に必要かという点では論拠が薄くなるであろう。ガッツポ―ズもまたしかりである。柔道や相撲ですら勝った後ガッツポ―ズをするようになり、剣道は何故それを許さないのか。許さない論拠を明確にしておかないと近々問題となってく
るであろう。
 いずれにせよ、「普及」と「伝統」のバランスをどのようにとっていくのか、剣道界が常に意を注がなければならない課題である。

 出典:体育とスポーツ出版社『剣道時代』 第344号、平成13年3月。

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Sunday, January 17, 2010


2010/1/31 剣道交流会開催 
        場所 ソウル鐘路文化体育センター
             時間 13:00~15:00
             参加費用 10万ウォン
      スケジュール
        講演:「剣道の悟りと現代社会人」
           剣道剣術師範 佐藤遙彦成榮
           体操と瞑想
           第三次剣道の提唱「技を楽しむ」
           剣道の地稽古
        参加資格:成人以上
        準備物;剣道防具
             (自由稽古の際使用。所持して無い方でも可能)
             竹刀、木刀、木刀プラスック鞘、
   
連絡先
kendo.exchange@gmail.com
TEL 070-7556-9598
skype hokuto-111

2010/1/31검도교류회 개최

장소 서울 종로(鐘路) 문화체육 센터
시간 13:00∼15:00
참가 비용 10만원

스케쥴
강연: 「검도의 깨달음과 현대사회인」
북진일도류 사범 사토 하루히코나리에(佐藤遙彦成榮)
체조와 명상
제3차검도의 제창 「기법을 즐긴다」
검도의 지계이고

참가 자격:성인이상
준비물;검도호구(자유연습할때 사용. 소지해서 없는 분이라도 가능)
죽도, 목검, 목검 플라스틱 칼집,

연락처 kendo. exchange@gmail. com
TEL 070-7556-9598
skype hokuto-111


Kendo exchange meeting held 2010/1/31

Seoul Jongno Culture and Sports Center
Hours 13:00 to 3:00 p.m.
Participation whon 100,000

Schedule
Lecture: "People Kendo enlightenment and modern society"
Haruhikonariei Sato Kendo master
Meditation exercises
Kendo proposed tertiary "enjoy the technique"
kendo practice

Eligibility: Adults over
Preparation; Bogu Kendo
( free practice. But you can not have one)
shinai, bokuto, bokuto sheath ,

Contact
kendo.exchange @ gmail.com
TEL 070-7556-9598
skype hokuto-111