Tuesday, January 19, 2010

出典:体育とスポーツ出版社『剣道時代』 第344号、平成13年3月。より

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防具(剣道具)の歴史(上)    中村 民雄  

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 現在、剣道の専門用語としては「防具」という言い方はなく、「剣道具」というのが正式名称である。
 しかし、「防具」という言い方も慣用的に用いられているので、以下、防具(剣道具)として論をすすめる。
 そこで、防具(剣道具)の歴史を述べる前に、まず防具・剣道具という用語の変遷について明らかにしておこう。

語の由来
 「防具」という用語は、江戸時代には使われた形跡がない。それに相当する語としては、「道具」もしくは「武具・具足・竹具足・竹鎧」といった語が、それを表わすことばとして用いられていた。
 はじめて「防具」という語が用いられたのは明治になってからで、軍隊組織をフランス式に改めようとしていた陸軍において最初に用いられた。
 明治十七年(一八八四)、フランス軍事顧問としてド・ビラレ、キュ―ルらを招聘し、フランス式の剣術・銃剣術をわが国の陸軍軍人に指導した。軍事顧問団が帰国したのち、その集大成として明治二十二年(一八八九)に、わが国初の『剣術教範』(総則、第一部正剣術、第二部軍刀術、第三部銃剣術)が制定された。その教範に、銃剣術の「器具ヲ大別シテ銃及ビ防具ノ二種」とし、「防具ハ仮面・胴(垂れつき)・肩当及ヒ甲手ノ四種ヨリ成ル」と、はじめて「防具」という語が出てくる。これが「防具」という語の初見ではないかと思われる。     
 つまり、フランス式剣術・銃剣術を日本人に教えるために、防身用具の略語として「防具」という造語がつくられたのである。
 この『剣術教範』は、明治二十七年(一八九四)、明治四十年(一九〇七)、大正四年(一九一五)と三度改正され、その都度日本式の道具や技術へと改良されていった。三度目に改正された大正四年以降は、軍隊剣術用の道具のうち、両手軍刀術のものは基本的には垂れつき胴であるが、一般の剣道用の道具と同じものを使用してもよいようになった。
これにともない、軍隊剣術用語であった「防具」ということばは、逆に一般の剣道の用語としても用いられるようになり、昭和になると、防具といえば剣道の「面・小手・胴・垂」をさすことばとなっていったのである。
 これが戦後も受け継がれ、撓競技から剣道の用語へと使われていった。        昭和二十七年(一九五二)、全日本剣道連盟が結成された。翌昭和二十八年に制定された「全日本剣道連盟試合規程」には、用具の条項に、「防具は面、小手、胴、垂を用いる。」という条文がある。この規程により、「防具」という語は、剣道の専門用語として再び用いられるようになった。
 しかし、それでもまだ剣道の専門用語の域を出ず、一般用語としての広がりはなかった。
 例えば、諸橋轍次著『大漢和辞典』(大修館書店、昭和三十四年)には、「防具」という語は載っていない。このことからみても、「防具」という語は明らかに近代の造語であるといえよう。また、新村出の『広辞苑』(岩波書店)の初版(昭和三十年)にも、「防具」という語は載っていない。この『広辞苑』に「防具」という語が載るのは、第二版( 昭和四十四年)からで、「剣道で、面・胴・腕などをおおって、相手の攻撃を防ぐ道具」と書かれている。第三版(昭和五十八年)からは、「剣道やフェンシングなどで、面・胴・腕などをおおって、相手の攻撃を防ぐ道具」と、フェンシングが加わっている。    いずれにしても、昭和四十年前後に「防具」といえば、剣道の道具という認識が一般的にも浸透していったことがわかろう。
 その後、昭和五十四年(一九七九)に「剣道試合規則・剣道審判規則」が大幅に改正され、試合規則の第八条に「剣道具は、面・小手・胴・垂を用い、服装は、稽古着・袴とする。」と定められて以降、「防具」という語は用いられなくなり、「剣道具」が正式名称として用いられるようになった。ちなみに、「稽古着」という語も、平成七年(一九九五)の「剣道試合・審判規則」から、「剣道着」という言い方にかわったことを付け加えておく。
 そんな、剣術の道具→防具→剣道具とかわってきた用語の変遷を念頭に置きながら、防具の変遷を眺めてみよう。

防具の発生
 剣術の防具の発生については、これまで一般的に宝暦・明和年間(一七五一~七二)であるといわれてきたが、この時期に急に発生してきたものではない。流派武芸の完成した寛文・延宝年間(一六六一~八一)ころから、すでに安全性を確保するための防具が部分的ながら工夫されはじめていたのである。
 ここでは、そうした事例を記した史料を紹介しながら、防具の発生について述べていくことにする。
 ただし、この時期の史料は非常に乏しく、詳細に論ずることは難しい。そんな中で、一二事例をあげれば、山鹿素行の随筆「綴話(自万治三年・至寛文元年)」(広瀬豊編『山鹿素行全集・思想篇第十一巻』岩波書店、一九四〇年)に、「竹刀剣術の作法も、・・・・古は具足を着、鉄の面をあてて、思う如くに勝負をして」と書かれている例がある。また、寛文三年(一六六三)二月、紙屋伝心頼春(直心流流祖、神谷伝心斎直光ともいい、紙屋は晩年の称である)が、大沢友右衛門に出した『紙屋伝心六十七歳ニテ一流見出シ直心流ト極致御伝授ニ付改兵法根元』(稲川故吉写本)に、「他流ニテハ稽古之節、皮具足、面思頁サマサマ道具ヲタヨリ稽古ス。直心ノ上テハ、イササカ身ヲフセク道具用不申」と記されているように、直心流以外の流派、具体的には何流かわからないが、すでに江戸時代のかなり早い時期に防具を使用しはじめていたことを裏付ける例もある。        さらに、天和二年(一六八二)、菱川師宣によって描かれた『千代の友鶴』に、タンポ槍を持った若者と、面具・垂付胴をつけ薙刀を持った若者とが仕合をしている絵がある( 写真1参照)。              
 この絵が描かれた年代が十七世紀後半、江戸時代中期に相当する。
 また、この絵に画かれた防具は、面具に布団や突垂はなく、顔面を覆うだけのもので、竹製のようにもみえる。胴は垂付胴で、これは明らかに竹製、のちの竹具足と同じもののようである。菱川師宣はその後も同じような絵を『浮世続』(天和四年)に描いているところをみると、江戸時代も相当早い時期にはすでに防具を使う流派があったことをうかがわせるものである。

槍術用の防具
 それでは、剣術と槍術とではどちらが先に防具を着用しはじめたのであろうか。このことについて下川潮は、『剣道の発達』(大日本武徳会本部、一九二五年)において、斬撃を主とする剣術と、刺突を主とする槍術との技そのものの性質から考えても、また稽古上どちらが危険であるかということから考えても、面や胴のような防具は、槍術稽古において産み出されたものを剣術が応用したものであろうと、槍術用防具の剣術流用説を述べている。

 しかし、江戸時代初期のころの武芸は、すでに剣術や槍術に分化し、単独の流派を名乗ってはいるが、教習の過程では「外物」として、槍術ならば剣術を想定した稽古を必ず行なっており、必ずしも槍術が先で剣術がそれを流用したと断定することはできないであろう。
 したがって、ここでは剣術が先か、槍術が先かという議論には深入りせず、槍術の防具の変遷と特徴のみを述べ、剣術用の防具と比べることに止めておく。
 なお、前述した菱川師宣の絵(写真1)には、竹製ではないかと思われる面で、面布団と突垂のない顔面のみを覆う面具が描かれている。また、小手はつけていない。同じく菱川師宣の描いた『浮世続』でも、小手は画かれていない。




 ところが、明和五年(一七六八)版、柏淵有儀の『芸術武功論』に画かれた正木流槍術防具は、「鉄護面」に頭部・咽喉部を防護する布団をつけた面と、垂付の竹鎧(竹胴)、腋下を護る防具、腰を護る綿護腰とが画かれている(写真2参照)。




 この百年の間に面は鉄製の強固なものに改良され、咽喉部を防護する丈夫でかなり幅の広い突垂と面布団が付着されたことがわかる。
 そのことは、幕末期の「風伝流槍一切道具図」をみてもよくわかる。咽喉部については「此よたれかけも竹具足の仕立のごとくなり。又是をなめし皮にてもよし。」と書かれているように、面金と同じ幅の竹やなめし皮で作った突垂が付いている(写真3参照)。「 風伝流槍一切道具図」は、幕末期の写本(年不詳)であるため、面や竹具足の他に、藁でつくった小手と脛当の図も加わっている。小手は対剣術用であろうし、脛当は対薙刀用であろう。つまり、槍対槍の仕合ばかりでなく、剣術や薙刀など異種仕合をも想定して防具が工夫されていたことを物語っている。これは他流試合が盛んになる幕末期の現象ということができよう。




 他方、江戸時代後期になっても突垂については必ずしもすべての流派で使用していたわけではない。文化九年(一八一二)に画かれた「日新館武芸稽古図・槍術」(写真4参照)には、突垂のついていない面具をつけ、皮胴を着けて稽古している絵が画かれている。この絵に画かれた流派が、会津藩に伝わった大内流、宝蔵院流、一旨流の三流の内のどの流派かはわからないが、槍術の稽古において防具を着用し、タンポ槍を持って行っていたことがわかる。



 以上、これらの絵をよくみると、なぜか小手の画かれていないものが多いことがわかろう。槍術の稽古は素手のままで、槍術用の防具には小手はなかったのかもしれない。槍術にも小手が登場してくるのは幕末になってからであり、後述するように剣術では江戸時代初期のころから小手を使っていたことからすれば、小手は剣術用のものを槍術が流用したとも考えられる。
 いずれにしても、両者が互いの防具の欠点を補うようにして、次第に現代のものに近い形にまで改良していったのではないかと思われる。

剣術用の防具
 剣術用の防具について、前掲の下川潮は『剣道の発達』において、「直心影流にては、山田平左衛門光徳(一風斎と号す)形稽古の形式のみに拘泥して気勢の欠如せるを慨き、全気勢を傾注して打込み稽古をなすも危険の虞なき防具の工夫を創め、其子長沼四郎左衛門国郷の時代正徳年間に至り完成」したと、書かれている。
 以下、下川の説を実証しながら剣術用の防具の変遷について述べることとする。
 直心影流は、初代・杉本備前守政元(神陰流)から数えて五代目・神谷伝心斎真光(直心流)、六代目・高橋弾正左衛門重治(直心正統流)と続き、七代目を継いだ山田平左衛門光徳が名のった流派名である。
 この山田平左衛門からはじまる直心影流の『兵法伝記註解』(稲川故吉写本)によれば、のちに直心影流を名のることになる山田平左衛門は、十八歳のとき木刀による仕合でけがをし、その後剣術を一時中断していたが、三十二歳のとき高橋弾正左衛門の流派が「面・手袋アリ而怪我ナキヤウニ、身ヲシトミ稽古スル」のを見て同流に入門し、四十六歳のときに免許を得たと記している。山田平左衛門が免許を得た歳は、貞享元年(一六八四)にあたり、それよりも十数年も昔から高橋弾正左衛門の流派では防具を使っていたことがわかる。            
 なお、高橋弾正左衛門が用いていたのは、ここでの記述が正しいとすれば、「面・手袋」のみであったことになる。胴は着けていなかったことになる。この点、同じ新陰流系統で、仙台に伝わった狭川新陰流が用いた防具が面と小手のみであったことから考えると、新陰流系統では早くから袋しないを使って、「面・手袋」を用いて稽古していたことがわかる。
鈴木省三『仙台風俗志』(自刊、昭和十二年)に描かれている新陰流の防具は、面と小手のみで袋しないを持っている(写真5参照)。




 したがって、「胴を打るゝ時は、只稽古着の衣物の上に当るを以て随分痛みを覚ゆるなり。」と述べられている。
 高橋弾正左衛門の師にあたる神谷伝心斎は、「他流ト仕相セハ木刀也。シナイニテハカタク無用之事。」といわれているので、神谷伝心斎は形稽古のみで、防具を用いるようになったのは、高橋弾正左衛門の時代からであったこともわかる。
 また、山田平左衛門が書き残したといわれる『兵法雑記』には、「兵法稽古之次第」の「吟味乱レ之事」を説明した中に、「右真勝負ニ至テハ面手袋小具足ヲ堅メ、互ニ遠慮ナク勇気一盃ヲ尽シ入乱可鍛錬者也。」と書かれた箇所がある。これは竹刀打込み稽古のことを言い表わしたものであるので、平左衛門の晩年には、防具を着用していたことがわかる。平左衛門が亡くなったのは享保元年(一七一六)、この年は正徳六年と同じ年にあたり、下川のいう正徳年間に防具が完成したという説とも一致する。
 さらに、山田平左衛門の第三子で、直心影流の道統を継いだ長沼四郎左衛門国郷(一六八八~一七六七)の墓碑には、国郷によって「木刀・皮竹刀」が改良され、「面・手袋」も、「鉄仮面」や「綿甲・覆膊」に改良されたと記されている。国郷が父・平左衛門から流儀を譲られたのは宝永五年(一七〇八)、それから平左衛門が亡くなる享保元年までの十年程の間に、父とともに防具の改良に励んだものであろう。
 これらの事例からみれば、新陰流系統で用いていた「面・手袋」を改良し、それに胴を加えて防具として完成させたのは、山田平左衛門の晩年、長沼国郷が道統を継いだ正徳年間(一七一一~一六)のことであったと結論づけても間違いはなかろう。

直心影流の防具
 次に、直心影流の防具について、どのような形態のものであったのかをみてみよう。現存する直心影流の防具は、残念ながら見たことがない。
 しかし、富永堅吾が昭和六年(一九三一)に模写した『諸流派武道具図絵』に、当時保存されていた直心影流の防具の絵図があるので、それを参考までに掲載する(写真6・7・8参照)。 
 この絵図をみると、面は竹製で、突垂がついていないことがわかる。胴は平竹を紐で組んだもの。小手は前腕部を覆うもの。竹刀は袋しないであることがわかる。写真5の新陰流の防具と比べてみると、面は面布団がついていること。胴は竹胴のものを用いていることが違いとしてあげられる。いずれにしても、写真6・7・8の絵図は長沼国郷の時代に完成されたといわれる防具と大差ないものといえるのではなかろうか。






「下」につづく。

 出典:体育とスポーツ出版社『剣道時代』 第344号、平成13年3月。



防具(剣道具)の歴史(下)    中村 民雄  

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防具の改良
 直心影流が防具を完成させてから五十年ほど経った宝暦年間(一七五一~六四)には、一刀流の中西忠蔵子武も「鉄面ヲ掛ケ、竹具足ヲ用ヰ」た竹刀打込み稽古法を採用した。このことは、中西是助の『一刀流兵法韜袍起源』(文久元年版)に、「抑モ中西家ニテ、シナへ打合初リシ濫觴ハ、宝暦年中ノ比」であったと記されていることや、白井亨の『兵法未知志留辺』(天保四年版)に、「子定死シ、其子中西子武ニ至リ、勢法ヲ以テ道ヲ伝ル事ヲ迂ナリトシ、今天下流布ノ韜袍比較ヲ捷径ナリトスルニ至リ」と記されれていることからもわかろう。
 中西忠蔵子武が竹刀打込み稽古法を採用した理由は、安永四年(一七七五)十二月、津軽藩一刀流の山鹿高美が、一刀流剣術の得失十一ヶ条を中西忠蔵に問うた質問書に対する、中西から山鹿宛の返書に明らかにされている(笹森順造著『一刀流極意』一刀流極意刊行会、昭和四十年)。中西は、山鹿の熱意には感心したものの、「しないの個条の処計愚案申述候」と、この一ケ条のみはとうてい看過することができないとして、この箇条のみ翌年正月三日付で返書を送っている。その一ヶ条とは、山鹿が師の小野忠喜に「木刀の勝負、竹刀の勝負」について問うたときの返答を、そのまま中西にも問うたもので、小野派一刀流宗家の返答が、「竹刀の業は存分軽く、譬へは子供の遊の如くにし、勝負の処を深く思う事を嫌うて事可ならん」とする意見に対し、中西は、竹刀打込み稽古法の採用により新生面をうち出そうとしていた中西派の意図の曲解であると反論した。この両者の対立点はそのまま、その後の小野派と中西派の一刀流内での勢力消長の分岐点となるとともに、他流派においても、竹刀打込み稽古法を採用するか否かは勢力消長の大きな分岐点となった。このころを境に他の流派でも、それまでの組太刀や木刀による形稽古法から竹刀による打込み稽古法へと大きく転換していった。
 十八世紀後半から十九世紀にかけての防具の形態ついて、鏃噛軒古温『似匠誤号之弁』(寛政六年写本)には、「たまたま具足といえばとて、布或ハ皮にわたを入、縫ひかためるに、竹なんどつづり付たる具足を着るより外はなし。」と記されている。また、山崎利秀『剣術義論』(寛政三年版)には、「業を試みるには、面・小手を当て、たがひに怪我せぬやうにして、しなへにて打合ても、勝負の理は分明なり。」と記されており、 園の『剣術秘伝独修行』(寛政十二年版)にも、「先ヅ両人ともに、面・小手・竹具足にて身をかため、怪我のなきやうに用心して」と記されているように、竹具足がかなり一般的に普及していたようである。幕末期の防具として多くの剣道書にとりあげられている『北斎漫画』(文化十四年)の絵は、ここでいう竹具足である(写真9参照)。


 ただし、『北斎漫画』に画かれた防具絵をよくみると、何故か突き垂がついていないことに気付くであろう。この点はすでに前回、直心影流の防具絵(写真6・7・8)においても指摘したとおりである。突き垂がないということは、このころの剣術の技には突き技がなく、面と小手を主に打つ剣術であったのかもしれない。
 突き技については、天保年間(一八三〇~一八四四)に柳河藩の大石進が五尺三寸の長竹刀で、江戸の名だたる師範を突きと胴切りでことごとく打ち負かしたという逸話が残っている。これなども、大石が大石神影流の剣術のみならず、大島流槍術の師範でもあったことから、槍術の刺突技術を応用して、剣術用防具の弱点をついて勝を制したものであったといえよう(藤吉斉『大石神影流を語る』自刊、一九六三年)。この大石に影響されてか、この後長竹刀が流行した。また、天保期の剣術用防具は、高野佐三郎の『剣道』(良書普及会剣道発行所、一九一五年)の口絵に掲載されているような、突き技にも耐えられるような幅の広い突き垂をつけた竹具足がつくられた(写真10参照)。




 江戸での流行は次第に在郷へも広がり、このころになると突き垂のかなり幅広のものが在郷でも発見されている。天保七年(一八三六)と明記され南会津郡伊南村で発見された防具は、竹面、竹具足という素朴な手作りのものであるが、突き垂はかなり幅広のものが付いている(写真11参照)。 



 伊南村では他に鉄面の防具ももう一体発見されているので、在郷においてはちょうどこのころ(天保期)が竹面から鉄面への移行期に相当するのかもしれない。
 以上のように、鉄面に頭部・咽喉部を防護する布団や突き垂をつけた面と、胸板のついた胴は槍術用のものを剣術が流用し、剣術にふさわしいように改良していったものと思われる。しかし、小手については、剣術で使用していたものを槍術が流用して槍術用に改良し、流派によっては片方の肩を完全に被う武具の篭手をそのまま応用したような小手も考案されている。このように両者が互いの欠点を補い合いながら防具を改良させていったのではなかろうか。
 いずれにしても、ここに至ってようやく今日の剣道と同じような突垂れのついた面、小手、胴、垂が出揃ったといえよう。したがって、これ以降はそれら防具の部分改良であったということができる。
 なお、江戸の町では、これらの竹具足や竹刀を取り扱う店が鍛冶橋から愛宕下辺りと下谷御成街道沿いに多くあった。牟田高惇「諸国廻歴日録」(『随筆百花苑・第十三巻』中央公論社、一九七九年)にも、「日蔭町高崎や江皮どふ壱ツ頼。金壱両ニ而頼置也。」という記述がある。皮胴の代金は一両。竹刀については、「晩方日蔭町罷出、しなへ竹求也。代弐百七拾文也。」という記述があり、別の箇所では、代金「弐百文」とあるので、竹刀は二百文から二百七十文くらいであったと思われる。
 このように、牟田が通った日蔭町高崎やは、鍛冶橋から東海道を西へ行き、芝口二~三丁目、源助町・露月町の一本西側の通りにあたり、近くの愛宕下には直心影流の長沼道場もある剣術の盛んな地域であったことがわかろう。また後に、幕府が築地に講武所を創建したのも、海防という条件とともに、この地が剣術の盛んな地であることと防具の供給地でもあったことを見落としてはならない。                 
 なお、葛飾北斎の『画本東都遊』(享和二年版)には、そんな鎧・具足屋の店先の様子を描いた絵がある。その絵の中に袋しないと竹具足が壁にぶら下っているところをみると、剣術の防具はこれら鎧・具足屋が取り扱っていたものと思われる(写真12参照)。



幕末の防具
 嘉永六年(一八五三)、ペリ―が浦賀へ来航し、わが国に開国を迫るという事件が起ると、江戸では武具・甲冑がとぶように売れ、江戸の町は騒然とした様相を呈した。また、これに驚いた幕府は、安政二年(一八五五)築地に講武所をつくり武術の奨励をした。
 この幕府直属の講武所は、それまで流派や道場ごとにバラバラであった防具や竹刀を統一する役割を果たした(『講武所』東京市役所、一九三〇年)。中でも講武所の規則に示された「鎗剣共形は無之、一同試合之稽古に仕」という条項と、「自分持参之道具たりとも、撓へ柄共総長さ曲尺にて三尺八寸より長きは不相成。」という条項は、従来の形稽古を廃し、竹刀の長さを統一し、流派を越えた試合中心の稽古形態に切り替えていった。このことにより他流試合は一段と活発になり、より強固で持運びのしやすい防具が工夫されていった。
 幕末期に多く用いられる一枚皮の胴は、持運びにも便利な防具として開発されたものである。竹具足の場合、胸から腹へかけての丸みはほとんどなく寸胴であったが、皮胴の場合は少し丸みがつけられている。垂も、竹具足の場合は垂つき胴で三枚垂が主であったが、皮胴になると垂は胴から離れ、三枚垂のものから五枚垂のものへと改良された。面は鉄面で、今日のものと同じ十四本の面金(横金)からなり、「金面突き」にも耐えられるよう縦金と横金はかなり前面へ盛り上がっている。また、面布団は突き垂とほぼ同じ長さで肩までしかなく、今日のものと比べるとかなり短い。突き垂はかなり幅広につくられているが、裏に用心垂はついていない(写真13参照)。


 さらに、このころになると竹具足と皮胴が一体となった胴(竹胴の外側になめし革を貼ったもの)もつくられるようになり、腹にも丸みが少しつけられ、今日の胴とあまり遜色ないものがつくられるようになった(写真14参照)。



明治以降の防具
 明治になり、廃藩とともに一時廃れかけた剣術の命脈を保ったのは撃剣興行と民間の愛好家による私家道場である。これに対し明治政府は、陸軍の軍政をフランス式に統一したため、明治十七年(一八八四)フランスよりド・ヴィラレ―、キュ―ルを招聘し、仏国式軍隊剣術の伝習を行った。この時伝えられた剣術は、のち『剣術教範』(明治二十二年)として制定された。ここで初めて「防具」という用語が使われるとともに、その防具も仏国式のものが使われた。
 しかし、陸軍の軍政はまもなくドイツ式に転換し、明治二十七年に制定された『剣術教範』においては、防具は日本式、軍刀術は片手式という折衷案が採用された。このような軍政の転換にもかかわらず、軍隊剣術用の防具の改良は続けられ、「軍刀術専用胴ニ持出胸(小胸トモ云フ)ヲ付ケタルモノアリ。持出胸ハ明治二五・六年頃ヨリ製作セラレシモ ノニシテ、其形状種々アレトモ要ハ腋下ノ防護ニアリ。」と、胴胸に小胸もち出しが付けられるようになった。また、胴台の丸みもさらに丸みをおびてくるようになった(陸軍戸山学校編『剣術用具ノ研究』軍需商会、一九一九年刊)。              
 大正期には、防具の大量生産が進み、職人による手刺しのみならず「ミシン」刺しの防具もつくられるようになった(陸軍戸山学校編『前掲書』)。             さらに昭和にはいると、小手布団が寸胴の筒型から前腕部のところに一部切れ込みが入るようになり、面布団も次第に長くなり両肩を完全に覆うものへと改良されいった。ここに防具の形態は完成したといってもよかろう。
 ちなみに、昭和七年(一九三二)「武道具定価表」(昌栄堂剣道具店)によれば、この店の最高価格の防具は、一式八十五円。内訳は、面(一分五厘、下菱帽子紺皮造リ、面金洋銀製、蜀紅入別仕立)二十六円。小手(一分五厘刺、総紺皮ケラ頚仕立)十八円。胴( 黒艶消塗、胸雲形蜀紅入、小胸付別仕立)二十四円。垂(一分五厘刺、ナマコ仕立雲形入特製)十七円という値段であった。いちばん安い竹胴式防具でも一式十円五十銭。皮胴の
もので二・三十円が手ごろな値段といったところである。それにしても今日の貨幣価値と比べて一万倍としても八十五万円。このころすでに一種の美術品のような価値を持っていたのであろう、単なる道具としてはかなり高価なものであったことがわかる。
 なお、比較のため柔道衣をみると最高価格で二円六十銭。剣道衣で「紺地肩ベタ刺」と
いわれるもので二円九十銭。「紺地上等総立刺」は六円もした。竹刀は子供用で四十銭、
上等のもので八・九十銭した。防具の値段という点が剣道の普及には常に問題となっていることがわかろう。

戦後の防具
 戦後、剣道ができなかった時期につくられた「撓競技」の防具は、「(一)防具は面、胴当、手袋を用いる。(二)面(マスク)は前面、側面も金網で作製したものを使用する。(三)胴当(プロテクタ―)は布製の部厚なチョッキに堅板(鉄板或は竹製のもの)を縫着したものを用いる。(四)手袋(グロ―ブ)は手首の長い堅板の縫着したものを用いる。」という、フェンシングを模したものであった(全日本撓競技連盟『撓競技―規程の解説と基本―』妙義三出版社、一九五一年)。
 昭和二十七年(一九五二)十月、全日本剣道連盟が結成され、翌年三月より施行された
「試合規程」には、「防具は面、小手、胴、垂を用いる。」と、撓競技とは違う、戦前からの剣道の防具を使うことになった。
 したがって、僅かな期間ではあるが、撓競技用の防具と剣道の防具が併存する時期があった。しかし、それも長くは続かず、昭和二十九年(一九五四)三月、全日本撓競技連盟と全日本剣道連盟が合併し、新たに全日本剣道連盟が結成されると、次第に撓競技は廃れていき自然消滅のようになくなってしまった。
 その後、剣道の防具はジュラルミンの胴がつくられたり、五本指の小手が試作されたりしたが、防具の形態を大きくかえるまでには至っていない。また、竹刀については、カ―ボンしないが昭和六十年に売り出された。このカ―ボンしないについては、昭和六十二年(一九八七)三月十八日、試合において使用してもよいことが通知され、現在では多くの人が用いている。
 また、防具の改良で忘れてならないのが平成九年(一九九七)三月に発売された「顔がみえる面」である。この面は瞬く間に普及し、平成十二年(二〇〇〇)三月十五日には、「剣道試合・審判規則、細則」の改正が行われ、細則第3条は「規則第4条(剣道具)は、第3図のとおりとする。但し、ポリカ―ボネ―ト樹脂積層板装着面は、全日本剣道連盟が認めたものとする。」(『月刊剣窓』通巻二二四号、平成十二年四月)となり、四月一日から施行されることとなった(『月刊剣窓』の絵図参照)。



防具(剣道具)の将来
 防具(剣道具)の歴史を結ぶにあたって、将来・近未来のことを少し考えてみよう。
 このことは、まず「防具」という用語を廃止したところから、道具→防具→剣道具という新たな第三の歴史が始まったことを意味している。この歩みはカ―ボンしないの出現とともに、顔の見える面を開発し、従来の防具のイメ―ジを大きくかえた。次にくるのは面および胴の紐であろう。面や胴の紐は日本人ですら蝶結び等できなくなった昨今、普及を考えたならば大きな障害となってくるであろう。面紐はマジックテ―プにかわり、胴紐もマジックテ―プと同じような着脱しやすいものにかわってゆくであろう。
 それとともに、文化や伝統として行われている剣道の所作事も次第に簡素化されて行くのではなかろうか。例えば、礼法か否かで議論のある試合開始・終了時の「蹲踞」などは、試合運営上の合理的根拠という点からすれば、互いに立礼を交わしているのに何故蹲踞が必要かという疑問もあるように、早晩廃止に向うのではなかろうか。もちろん蹲踞を行う意味はあるにせよ、それが試合に必要かという点では論拠が薄くなるであろう。ガッツポ―ズもまたしかりである。柔道や相撲ですら勝った後ガッツポ―ズをするようになり、剣道は何故それを許さないのか。許さない論拠を明確にしておかないと近々問題となってく
るであろう。
 いずれにせよ、「普及」と「伝統」のバランスをどのようにとっていくのか、剣道界が常に意を注がなければならない課題である。

 出典:体育とスポーツ出版社『剣道時代』 第344号、平成13年3月。

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